昭和40年08月16日 朝の御理解



 百様とは申しますけれども、本当に一人一人の個性の相異と申しますかまあ例えていうなら、生まれ付き素直な人があるかと思うと生まれ付き頑固な人がある。お腹の美しい人がある汚い人がある。生まれ付きなんだ強情なのが。本当に生まれ付きにその浅ましい人がある。ここに例えば何十人の方がおられましょうが。その一人一人が本当にあの人は良い性格だと本当に素直で、もう大体生まれ付き仏様の様な人だと。
 というと強欲な強情で実意がなくて、もう本当に信心しよって、真心なんかて実意なんて持っていない様な人もやっぱあるんです。銘々の自分の心の上に手を当ててご覧なさい。見かけはこげんしておるけれども、心の中には真心ちゃ探したっちゃ、無かごったとがおるでしょうが。成程、自分乍ら、おかげが受けにくい、自分だと言う事を思う人を。私その事を今朝から思わせて頂いたんですね。神様はもう一様に素直なもの、例えばおかげを頂き易い様な、人間をお作りになりゃ良いのにね。
 本当に例えばおかげの頂き難い、という性格を持っておる人の言わば真心一心とか、この方の道は真心一つで助かるとか、実意丁寧とかその実意丁寧とか真心とかというものをです、持ち合わせておる人がおるんですよ。人が右ち言えばしゃっち左ち言わなんならと云う様な人があるかと思うと、自分が右と思うても人が左ですよと行ったら、ほんに左ですなと、こう心から段々そうなって来る様な人すらあるんです。
 言うなら教祖の神様の様にもう、生まれ付きが素晴らしかったと。皆さんそんな風に思うて見られんですか。信心しよってどうして自分で自分ながら、こげな汚い心があるじゃろうかと、云う様な人もあるでしょうが。私は本当に信心とはですねそういう風に例えば自分の頂いておるものに気付かなければ駄目だと。第一信心では真心とこういう。特にお道の信心では実意丁寧というがです。
 本当に自分じゃ実意丁寧がないなあと。私自身もそうですけれどもです、例えば皆さんのなされ方とか、あり方というものを、私ここからじっと見させて頂いて、信心があるのに、十何年も稽古をさせて頂きながら、そこに実意実意真心真心と云う事を、頂きながら、この人ばかりはどこに真心があるとじゃろうかと、なんていう実意のない人じゃろうかと、いう人がやっぱり、ありますんです。
 というてんなら、ういう人は、もう私はもう構わんとか好かんとかと思わんですね。それは私お取次ぎをさせて頂くその立場でですそういう人達が、おかげを受けて行かなければならんけれども、しかし私は思うのです。神様に対して申し上げたい気がする。もう始めからあなたのおかげを頂く事の出来る氏子というのはもう、始めから決まっておる。真心の厚い実意な忠実でそういう、良い性格をあなたは与えておられる。片一方にはそれとは反対の物しか与えておられない。
 神様も平等ではないと。一応におかげをやってあると仰るけれども、そうじゃない、と言った様な事を、私思わせて頂いておったら、御心眼にですね、合楽のあの御造営のお土地を頂くんです。私共、何回となしにあちらに、兎に角、合楽でなからなければいけないというて、丁度あの辺を探したのだけれども、あの道の東側を随分ここが良かろう、あそこが良かろう。してもう、ここはもう出来たもんの様に思うておった。
 ですねあの道の東側の方は。もう道の西側なんかてもう、ここは安うしてありますけれども、もう言われてもです、もう見向きもしませんでした。実をいうたらこげな深田かしかも是はいかん。もういかんに決めてしもうておった。皆さんどうだったでしょうか。また見に実際に行かれた方達も是はもう、見込みがあるけん、ここに始めから手を打っておこうかという者は、誰ぁれんいなかったでしょうが。
 あそこの所を頂くんですよね。そして早速その、お土盛をしたり、その様々なあそこで御用が在っておる所を頂くんです。そして今どげんですか、はぁ素晴らしかち、チョイトこれはもう神様神定めの土地じゃろと今では言っておるでしょうが。それで今日私が申して、皆さんが今日私は、何を言おうとしておるかと言う事がお分かりになろうと思います。こっちの道の東の方にはあんまり手も要らん。
 要らんだけではなくてから、土地も良い土地だと。だから片一方が五十万、片一方が十五万というてもです、もう十五万の方なんか、もう全然もう見向きもしようごつなかった。ところがその、道の東側の方が出来るごとして出来なくて、とうとう、上とうとう私、行っても居なかったのですけれども、あんな上の方へ定め、一時定めてそして借りとる事にして、手付まで打ちましたんですからね。
 三十万という金で。もうあそこに定まっておったんですよ。実を言うたら。ところが、下の叔母さんというのが色々その文句を言うて、その一間開けてくれとか何とか、いわゆるその難癖をつけて来られた。そんな事はあって来る筈はないのに、そう云う様な問題が起きて来た。そこへあそこはどうかと、言った様な事になって、先日地鎮祭の時でした。福島さんが善導寺の親先生に。
 先生この土地ばこうやって購入させて頂くまでには、四十回近くですね、三十何回通いました。もうそれが、ずうと行ったたんびの事ばメモしてあるらしんですよ。親先生がたまがっておられました。ほうて言ってから。本当にやっぱりそうだったでしょう。関係の方達は本当にそうだったんです。けれどもそれは百回通ったってですよ。出来んものは出来んです。けれどもそこがです、やっぱりおかげなんです。
 神様は見捨て給わん。そして出来る様になったらバタバタ出来る様なおかげを頂いて、さあいよいよあそこに土盛をする様になる、土盛が出来てあがって見た所が、成る程ここは素晴らしいと云う事になった。同窓会かなんかに参りますと、よう学校の先生が、もう私はあんたの事だけはもう一生忘れられんばいち。言いなさる生徒がおるんです。何人か。それは必ず悪そう坊です。
 もう先生から叩かれたりそうにゃおごられたり、いわゆるそれだけ先生に手を掛けておる訳なんです。先生のもう手が入っておる訳なんです。だからあんたの事だけは忘れられんちいうて、先生の方が言いよるなさるです。それにはそれこそ叩いてでも、その教えられなさった事があろうけれども、それ程に又、愛情も深いとその生徒に対して。あんたん事は忘れられんと言う様な事になって来る様にです、私その事を頂いて、成程神様は、不公平ではないのだと云う事を感じました。
 お互いがです、様々な性格のものをを持つ、しかも自分の性格のものは、本当に貧乏くじを引いているんだと。どうぞ皆さん、自分の胸に手を置いてみなければいけませんよ。自分は生まれ付き、性格が良い。と言う人があるだろうか。第一実意がないでしょうが。金光様の信心の、信心の中心と言われる、その実意がないでしょうが。口ばっかりでしょうが。真心がない。
 とに角信心をさせて頂きよってから、こげな事で良いだろうかと言う様なものを、お互いが持っておるでしょうが。もし持っていないというならば、あなたは愈々信心を本気で頂こうとしていないと言う事。いわゆる。汚いまま、根性の悪いまま、実意のないまま、唯おかげだけを受けたいという、言わばがりがりの信者と言わなければなりません。第一実意がないもん。口で言うておるだけだもん。
 この一言だけだって、自分は本当におかげは受けられまい、と云う事になって来るでしょうが。ですからもうそれこそ、人に良く申します、先生今日の御理解は、もう私一人で頂く様な御理解でした。言わばまるきり、私に当て付けた様な御理解であったと言う訳なんです。信心させて頂きよって、そう云う事でおかげの頂けれるはずがないじゃないか。おかげの受けられるものは違うばい。
 見かけはあげんしておるけれども、もうこう言う事を云うたりしたりしておってから、おかげが頂けれるはずがない。と例えばその第三者が言う様な人達もあるて。けれども神様はです。矢張りそう言う氏子でも決して見捨て給わないと。石井クマコさんが頂かれた御教えの句の様にです、「どれほどかお手間かけしぞ菊の花」でしたかね。菊の花こうやって、大輪の菊の花が綺麗に咲いたけれども。
 是迄にはどれだけの手が数がいっておるか分からないと云う事。それこそ神様の方が、生まずたゆまずお導きを下さる事に手を掛けて下さる。だから手を加えなければならない程の人程です、言わば貧乏くじを引いたごたるあるけれども、良く々考えて見ると貧乏くじでじゃない、宝くじである事が気付かせて貰う。所謂巡りが深ければ深い程、巡りが多ければ多い程信心も深まるのであり、おかげも多いいのであると言う事。
 いよいよお互いがですね、おかげを頂きまして、それこそ普通の人間通しならば見向きもしようごとなか、あげんとどん付き合おうごとなか、物でん言おう事なか、と例えば言う様な人間でもです、神様はそれを仰らない。金光様はそれでも生まずたゆまず、それこそ絶えまず教導して下さる。十年掛っても、二十年掛ってもどうかして、いわゆる真の人間にならせて下さろうとする働きを下さる。
 してみると成程、神様は平等だなあと言う事になる。成程神様は屑の子程可愛いとおっしゃる、その辺が分かって来る。いよいよ私共が信心が解らせて頂いて、教えの鏡を前にたてさせて貰うて、自分の見苦しさ、自分のおかげの受けられないタイプである自分に、先ず気付かせて頂いて、もう私の様な者にというところに立ち至る時、いわゆる屑の子の自覚に立たせて頂く時です。
 学校の先生じゃないけれども、私はあんたが一番印象に残っておる、と言う様にです特別の又愛情も、かけ注いで頂くのだと私は思います。もう本当に信心を深めていけば行く程です。もう本当に匙をもう投げ様事ある。自分ながら自分で自分が、愛そんこそんなかごつなる。そこまで行かなきゃ駄目だと。ただ黙って、上だけ見て座って居る様じゃ詰らん。お話を頂きよるじゃら。
 頂きよらんじゃら分からんそげんとは。本当に自分のごたるもん。自分のごたる実意のないもの。自分ほど忠実の無い者。自分程我情我欲の強いものと言う事はです、お話を頂けば頂く程分かって来な。だから私の様な者が私の様な者がという、言わば実意の言わば風でも見えて来る様に、段々私はなるのではないかと思うのです。分かりよるじゃら分からんじゃら分からん。
 これで自分の巡りの深さを一つ自覚させて貰うて。神様が仰る屑の子程可愛いと言うて下さる、その屑の子ほど可愛いという親心に、いよいよ縋って行かなければならんと言う風に思います。合楽のあのお屋敷がです。になる所がです、始めの間はそれこそ、私共はそれは道一重ですから、言われもすれ、言いもして来たけれどもです。あそこを屋敷にするなんて言う様な意味合いにおいては。
 見向きもしなかった土地であった。それは神様がです。あの人この人を使ってから、ずうっとです。皆さんが例えばそういう屑の子であるのだけれども、あの人この人を使って神様がです、椛目に御神縁を下さっておるでしょうが。そんなもん。皆さん丁度いうならば、合楽のあのふかだめも人柄も、あげんとはもう十万円がつしかなかち言うごたる風な者だというものを悟らないかんと。
 そういう言わば神様はそれでも見捨て給わず、次々と別な泥を持って来てから、ああ言った高めた所のお土地にして下さった。あの界隈で言わば今度あそこの土地が一番素晴らしいと云う事になったじゃないですか。そういう、あれは高められた素晴らしい私共にならせて頂く事のです、おかげを頂く為にまずまず、自分自身を知れと言う事なんです。
   おかげを頂かねばいけません。